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▼ 表現の不自由な方 「表現の自由は、無制限にこれを認めるべきである」というのが、私の主張である。それでは、道行く人に悪口雑言を浴びせ掛けるという行為は正当なのか、と問う方もおられるやも知れないが、それとこれとは若干次元が別である。なぜなら、他人に悪口雑言を浴びせるという行為は、特定の個人を攻撃する、攻撃行為だからである。私が述べたいのはそういったことではなく、その単語の使用そのものが「悪」だと判断されるような語等というものは、あってはならない、と主張したいのである。もちろんこの「あってはならない」というのは、「今あるそう言った単語を、未来永劫使用しないようにしよう」というのではなく、「そんな考え方はやめよう」という意味である。 「基地街」という言葉をご存知だろうか?いや「既知害」か?「機知Guy」だろうか?おっと、私は別に、基地の街のことや、既に知られている害悪のことや、ウィットな発想に富んでいる青年のことを言いたいわけではない。これら三語に共通する読み方の、音について言っているのである。いくらこの語が隠蔽されて久しいとはいえ、この語をご存知ない方はまだおられまい。 手もとの国語辞典によれば、「心の状態が普通でないこと。その人。イ:発狂の状態。狂人。ロ:ある物事にすっかり夢中になること、また、なっている人。」(岩波国語辞典第4版より抜粋)とあるこの言葉は、現在その使用に際し、多大なリスクを伴う状態にある。たとえ他の論述がまっとうであっても、その発言の中にこの語があっただけで、発言者に「差別主義者」のレッテルを貼り、まるで悪の詭弁家を見るかのように、その論述から目をそむける風潮が、現在この日本にない事を主張できようか。 その言葉を発することと、その言葉の対象となるものを攻撃・差別することは、決して同一のものではなく、まったくの別物である。一般論を述べる時に、特定の個人ないし集団の心証を必要以上に気にする必要はないのである。 私がこの文の中で、いわゆる「差別」を助長しているのではないことは、文章を読めば、分かるであろう。盲目的に、「気狂い」等の単語の使用を制限することは良くない、と主張しているのである。
さて、いったい私はなぜ、こんな話題を公開時に合わせて書いているのだろうか・・・。
●付録(意図せずそうなってしまった・・・) 果たして、盲・聾・唖と入力することができたろうか? 1999.05.25
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